STORY0

 剣を突き刺した感覚が、嫌になるほど生々しく手に残っていた。

 空を見上げれば、雫がぽつぽつと顔に、髪に、体に当たる。

 雨だ。

 大地に染み込みまた空へ還って再び地に落ちる、そうして循環するようにこの手の感覚も洗い流してくれればいいと思った。

「いや……それは、駄目か……」

 雨のように循環するならば。この手に残った感覚も、例え今は流されたとしても再び巡り還ってくることになる。

 柔らかいものに剣を差し込んだあの感覚が――

 ぞっと背筋が冷え、気付けば体を抱いていた。軽く雨に打たれた体は、じっとりと湿っている。その微細な冷たさをはっきりと感じ取れるほど掌は熱を持っていた。

 視線を持ち上げる。額から零れた雫を瞬きで流して、一度だけ大きく息を吐いた。

 真っ先に視界に入ったものは――剣。

 どこにでもある普遍的なものでこれといっためぼしい特徴もない。熱心に手入れをしていたわけではないから、例えば獣などを数体斬ったところで錆びてしまうだろう刃が、視界の隅で鈍く光を放っていた。

 それは目線と水平の向きに突き刺さっている。刃の先は――剣が何に突き刺さっているのかは、見たくなかった。

「……」

 雨は次第に強さを増していた。湿気を帯びるだけだった髪が今では重い。水を吸って肌に張り付いた服の感覚が気持ち悪く、再び大きく息を吐くと白を帯びて霧散した。

 体温がゆっくりと奪われてゆく。それなのに、掌は依然として熱を持ったままだった。

 小刻みに震えたのは寒さからではないことは解っていた。その感情の名も解っている。

 ――恐怖。

「……っ」

 剣から目を逸らす。体も反転させると逃げるように歩き出していた。水を含んだ草が踏むたびに詰まった音で鳴く。心臓が潰れるような音だと思った瞬間、胸の鼓動が耳の奥で響いた。

 顔を心持ち下げ、唇を噛み締める。走り去ってしまいたかったのに、そうできない己の甘さを内心で罵った。

「どこへ行く気だい」

 背中に声が響いたのと、立ち止まったのはほぼ同時だった。まるで声をかけられるのが解っていたかのように、即座に反応していた。

 いや、解っていたのだ。心がそう認識するのを拒否していただけで。

 事実、振り返って確認しなくとも声の主は解っていた。

「……あなたは怒っているでしょうね」

 零れた言葉は酷く淡々として熱がなかった。体の震えは止まらないのに、ぶれることなく発声できたことに、少しだけ驚いた。

「大勢と違うということだけで、どうしてすぐに異端と決め付ける。どうして――こんなことをする!」

 雨音に混じる声には、明確な怒気を感じ取れた。それが、振り返ることのできない原因でもあった。

「そうしなければ、いけないからよ」

 今度の声は震えた。理不尽を解っているのに、それを相手に強いなければならない、そうすることしかできなかった己への怒りが震わせた。

 雨の中に悲鳴のような水音が響く。恐らくは向こうが一歩踏み出したのであろう足音だと推察した。

「人間はいつだってそうだ。もっともらしいことを言って納得させようとする。既成事実が免罪符にでもなるとでも思っているのなら……大間違いだ」

 声に孕まれた殺気――背筋を冷たいものが這い上がる感覚に、反射的に振り返っていた。

 相手が思い描いていた人物と確信する前に、自分が突き刺してしまったものが視界に飛び込んだ。直視の衝撃は思考を停止させる。その一瞬の間に、冷たいものが体を駆け抜けた。刺された、と認識したのは冷たいものが完全に体を貫いてからだった。

「……ぁ……」

 雨に混ざってぼたぼたと深紅の液体が地を流れる。血。急速に足から力が抜けて立っていられなくなった。正面から倒れると、鼻腔に濡れた土と鉄の香が漂い、あぁと何に対してか自分でも解らない嘆きの声が漏れた。

「あの人の痛みは、こんなものでは全然足りない」

 体が熱い。それなのに指先からどんどん熱が引いてゆく。

「全然足りないが――生かしてここから立ち去らせるわけにもいかない。死に逝く絶望をもって、あの人の絶望を少しでも味わえ」

 掌は――掌だけは相変わらず熱いままだった。

「肉体だけじゃなく、魂にすら死を与えてやる――」

 あの感覚が残ったまま。

「それが、あの人を殺した罰だ」

 人を刺し殺した、あの感覚が残ったまま――

 

 

 

 望んだものは、ささやかなもののはずだった。

「世界は優しくて厳しいわ。全てを包み込み、同時に拒絶する」

 けれど、望んだ己が異端の者だったがゆえに、そのささやかなものですら与えられることを許されなかった。

「そして、そんな世界に生きる命は色々なものがある。その全てが相容れることなどできないというのは、あなたが良く知っているはず」

 憧憬を心に描くことですら自由ではなかった。望むことは罪だったのだろうか。願うことは許されないことだったのだろうか。

「わたしはあなたを受け入れるわ。わたしだけは、何があってもあなたを迫害しない」

 世界に許されたとしても。命は許してくれなかった。

「……いいえ、許してくれた命はあったはずよ。あの時も、そして今も」

 ――本当に?

「えぇ」

 木の葉がさざめきあって波のような音をたてた。その中央に鎮座していた少女は微笑む。柔らかに波打つ金糸が裾の広がったドレスと共に風で踊った。

「気になるのなら、命そのものに訊いてみてはどうかしら」

 楽しそう、ではなかった。自愛に満ちた優しい――子どもの背をそっと押す母親のような声だった。

 ――。

 返事はざわめきの波にさらわれてしまったが、少女には聞こえていたようだった。微笑だけを表情に残す。

「いってらっしゃい」

 呟く少女の背には大樹。そこには水平に一本の剣が突き刺さっている。柄に手を添えると、いじらしいほど小さく吐息を零した。

 気配はもう無い。いってしまったのだろうと判断して、小さな唇を動いた。

「許してはくれても、受け入れてくれるかは解らないけれどね……」

 ――それは紡がれる物語。


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